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「藤本繁蔵の鮨」その1 [鮨]

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僕が雑誌「オプラ」(講談社)2004年6月号に書いた記事
『藤本繁蔵の鮨』を読んでみたいという声が寄せられています。
現在「オブラ」のバックナンバーが入手困難ということもありますので、
記事をそのまま転載することはできないのですが、
文章の抜粋を数回に分けて、掲載することにしました。

14年前に書かれた記事ですから、
すでに故人となられた方の証言も含まれていることを
予めお断りしておきます。

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藤本繁蔵は明治35年(1902)6月1日、東京の茅場町に生まれた。生粋の江戸っ子である。
数え11歳にして神田の鮨屋に修業に入り、20歳で一端の職人と呼ばれた藤本は、すぐに頭角を現わし、
その腕を請われて木挽町(現在の東銀座)『二葉鮨』に身を置く。
(中略)
藤本は20代の若さにして、後に銀座『なか田』の主人となる中田一男と共に、
『二葉鮨』のトップ職人として君臨する。

そして戦後。日本橋『すし春』、赤坂『にし木』、六本木『きよ田』と
斯界に名を刻む歴史的名店を、藤本は経営者ではなく“雇われの親方”として渡り歩いていく。

昭和27年に開店した『すし春』は、当時の東京にあって最も高価な鮨屋と言われ、
1日の労働者賃金が240円の“ニコヨン”時代に鮨1貫300円という法外な値段をつけていた。
使う器が魯山人や加藤唐九郎なら、訪れる客も超一流。
小林秀雄、吉田健一、青山二郎、白洲次郎・正子夫妻、今日出海、大仏次郎、武原はんといった
錚々たる顔触れの文化人が連夜のように集い、藤本の鮨に舌鼓を打った。

赤坂『にし木』もまた超のつく高級店。
赤いビロードの絨毯が敷かれたその店内は、まるで迎賓館のようであったという。
(中略)

そして昭和38年創業の六本木『きよ田』。
後に銀座七丁目、銀座六丁目と場所を移し、戦後最高の鮨屋と評されるこの店の
初代の親方が藤本繁蔵であることを知る人は少ない。

藤本が高級店ばかりを渡り歩いたのは、常に最高の魚を握りたかったからに他ならない。
予算の制約なしに魚を仕入れる、それが出来ない限り、藤本の鮨は成り立たなかった。
「魚については絶対に妥協しない。自分が納得しないものは出さない。それはもう徹底してました。
河岸に気に入った魚がないからと、手ぶらで帰ってくることさえありました」(清水喜久男氏)。

そうして仕入れた極上の魚に、最高の仕事を施し、見目麗しき鮨に仕立てるのが藤本の流儀である。
銀座『鮨青木』の女将、青木豊子さんは「先代(故青木義氏)は『藤本さんの握りの形は本当に美しい。
誰もあの人には勝てない』。そう口癖のように言ってました」と回顧する。

興味深いのは、藤本が決して江戸前の作法だけに縛られなかったことだ。
江戸前では醤油と砂糖で煮るアワビを京料理のように蒸して出す。アナゴの香りづけに木の芽を添える。
今では多くの鮨屋が取り入れているこれらの仕事を、藤本は50年も前から実践していた。
古典を踏まえながらも柔軟な発想を持ち、進取の気象に富むのが、藤本のスタイルだった。
 
そして職人の側が握るタネと順番を決める“おまかせ”も藤本が最初と言われている。
「藤本さんは注文聞かないの。『何にしますか』なんて言わない。黙って握る。客の方も黙って食べる。
今思えば、口うるさい文化人がよく文句を言わなかったと思うけど、それだけ藤本さんの腕と味を信頼
していたのよ」(日暮静江さん)。
藤本はその後の江戸前鮨の流れを変えた改革者でもあったのだ。

藤本は70歳を前にして包丁を納めたが、それから天寿を全うする直前まで
弟子たちの店を訪ね歩き、指導を続けた。
その84年の人生は、まさに鮨ひと筋に捧げられたものだった。

http://hikari-h.blog.so-net.ne.jp/2018-03-10
( ↑ 続きです)

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